「日本新聞探勝号」(昭和2年4月5日発行)によると、嘉義樓さんは、明治17年(1884)から昭和2年 (1927)までの約40余年にわたり、楽々園を旅館として営まれていました。その間、楽々園で盆梅陳列会を催されていたと想われます。なぜならば、楽々園を借り受けて旅館経営をする目的は、彦根で盆梅陳列会を開催し、彦根城と多賀大社の冬の誘客活動にあったからです。
湖東地方の降雪期は、彦根城や多賀大社を訪れる観光客も少なく、その寂れを憂慮して、その対策、振興策として、積雪中にも春に先がけて咲く梅花に気づき、盆梅陳列会の開催に懸命の努力を払われたのであります。東は東北から、西は九州の遠路から集めた梅樹は、途中で枯らしたものを含めると何百何千を数えたそうです。その中には、樹齢7百年を超える老樹もあったそうです。
盆梅陳列会には鉢数600余を陳列して無料で公開したところ、毎年期間中に2万人ほどの観覧者を吸集し、湖東名物、梅の名所と謳歌されるようになったそうです。
まさに地域観光開発のさきがけでした。
ところが、昭和2年に、盆梅会場の楽々園が借用期限となり、同庭内の玄宮園に引っ越すこととなり、盆梅主会場も、多賀駅前(壽館新築)に移転したのでありました。それから、彦根の同時期の観光客が著しく減少したのは云うまでもありません。
盆梅のその後の動向は資料不足のため不明で、多くの盆梅が何処へ行ったのかも分からない状況です。